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神様

執筆者の写真: Keiko WadaKeiko Wada

まだ幼稚園前後の子供の頃、「神様はいる」って信じていた。


髭をたくわえた優しいお顔で、白い装束でいつも私たちを見ておられる。良い事をしても悪い事をしても見ておられる。もしかして助けてくれてたんじゃないか。そう思っていた。


でも、成長とともに、いや、教育とともにどんどん忘れていった気がする。


というか、日本には神様がたくさんおられて、しかも1番頂点におられるのが太陽の神様、天照大御神で女性であると…。

神社に詣って拝むたびにお願い事はして感謝の意を込めていないと言う間違ったご挨拶しかしてこなかった大馬鹿者の私は当然努力の仕方すら知らずに願いが叶うことなんて、まあなかったよね。願い事もつまらない内容で。次第に詣っても願い事に期待はしなくなっていって、単にご挨拶に上がるって感じになっていった。結局それが正解だと学んだ。


「願いが叶うと評判」などと言われる神社やお寺に足を運んでは手を合わせるのに、さして変わり映えしない私は運がないと思ってたが、実はただただ自分が欲どおしいだけだった。その神様がどのような方かも知らず、不躾にお願い事をしていただけに過ぎない。


神の御前にてまず感謝を込めて挨拶する。そしてお願いというより「私はこうこうこうでこうなるようにこういう事に努力する」という意志を示さねばならない。そして「お導きください」と締める。

「で、お前はそれについて何をするのか?」と言われていると思って「絵を描き続けます」みたいな事をしっかり伝えねばならない。具体的であればなお良いらしい。


つまり、これは自己暗示というか、決意表明を神様に伝えに行くみたいな事。

とはいえ、私は神様が建物の中におられるとは思っていない。

そう、子供の頃に信じていたように神様は常に私たちのそば、私たちの中におられて見ておられる。神社に行って決意表明を示しても途中気が変わったり、そうはいかなくなったりするのだから、カーナビみたいにちゃんとお導きの微調整もありえるだろう。


で、この「お導き」は霊のおかげだと思っている。決意表明をそばにいる霊の方々も聞いているので私たちに方向指示をかけてくださってる。ただし欲動しい願いを込めちゃうと、ワルな霊が寄ってきてしまうかも。もちろん私たちは操り人形ではないので自分で選択しているのだから良いもの悪いも自分だということは間違いない。


では神様とは何なのか。子供の頃に信じ込んでたあの髭の人は何なのか…。


神様は人の姿でおられない。神様は絶対的な自然の法則にある。言葉を伝えてくる事はなさらない。だから誰の中にも誰のそばでも見られる事象。「そりゃそうなるわな」という摂理が神様だ。これは「シルバーバーチの霊訓」を読んで納得した事。

あの髭の人は妄想だろう。もしくは生まれる前に見た霊界の人かも。


太古から私たちにメッセージを伝えたと言われる神と呼んでる方々はとってもとっても偉い霊神であって、この方々でも曲げることができない法則が神様なのだ。


そう私は思っている。

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